
お待ちしておりました。DEEP岸和田クイズの解答&解説ページへようこそ。このページを見ているのは、観光客?通りすがり?それとも岸和田の学生さんかな?いずれにせよ、みなさんには岸和田城周辺整備工事でご迷惑をおかけしてます。来春には完成しますので、しばしお待ち下さい。
さて、そんな皆さんに、工事中も岸和田城周辺の"岸ぶら"を楽しんで頂けたらと思い、DEEP岸和田クイズを実施しました。
では、早速、クイズの解答解説です!

問Ⅰ:岸和田城には「犬走り」があります。どの部分の、何をする場所でしょうか。
① お城の中で忍者や侍が隠れ、すばやく走りながら移動するための通路。
② 今でいう、DOG RUN。藩主の奥方の飼い犬を運動させる場所。生類哀れみの令以降に設置された。
③ 本丸の周りにある平坦面で、石垣の補強のために築かれた。同様のものは彦根城、今治城などやや地盤の悪いところに築かれた城に見られる。
④ 城下へ抜ける秘密の抜け穴。犬が穴を掘ったような素掘りの穴で、非常時の脱出口の可能性がある。
答 ③
問Ⅱ:岸和田城二の丸には、徳川家から拝領した櫓がありました。なんという櫓だったでしょうか。
① 江戸時代、城や城下町で最も恐ろしいのは火災であったため、火見櫓。
② 二代将軍徳川秀忠より拝領したため、秀忠櫓。
③ 二の丸御殿から月見の会を催すための、月見櫓。
④ 京都の伏見城から移築したため、伏見櫓。
答 ④
問Ⅲ:岸和田高校には『ターヘルアナトミア』初版がありますが、これの邦訳はなんでしょうか。
①重訂本草綱目啓蒙(じゅうていほんぞうこうもくけいもう)
②仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)
③解体新書(かいたいしんしょ)
④大日本帝国憲法(だいにほんていこくけんぽう)
答 ③
問Ⅳ:今、岸和田高校校舎が建っている場所は、江戸時代には何だったでしょうか?
①藩の奉行所
②藩主が住む御殿
③藩校講習館
④藩筆頭家老の屋敷
答 ④
問Ⅴ:岸城神社は明治のはじめに岸城神社という社名になります。それまでの社名はなんだったでしょうか。
①牛頭天王社、御宮。
②城の中にあり、武家の守り神であるため八幡神社
③菅原神社。岸和田高校が学問の神様の隣にあるのにはこういう理由があります。
④岸和田恵比寿神社。城下町の商売人から崇められた。
答①
問Ⅵ:同志社大学を創立した新島襄は、「ある人」の依頼で明治11年に岸和田へキリスト教を伝えに来ましたが、新島に依頼した「ある人」とは誰?
①岸和田煉瓦㈱社長山岡尹方
②明治天皇
③元岸和田藩家老岡部結城
④元岸和田藩主岡部長職
答④
問Ⅶ:岸和田の近代産業についての説明として誤っているものはどれ?
①古くから木綿栽培が盛んであったため、明治時代以後は紡績業や織物業など繊維産業が栄えた。
②明治時代には洋風建築が流行したこともあり、煉瓦製造業が栄えた。
③本町に国立銀行が設立されたが、昭和初期の金融恐慌で倒産した。
④寺田財閥は紡績・金融・鉄道・電気など様々な事業を展開し、一時岸和田市長も勤めた。
答③
いかがでしたか?何問正解したでしょうか?
岸和田にずっと住んでいる人でも「難しかった~」「全然わからなかった~」という方が多いのではないでしょうか?
只今、城周辺ではイメージアップ事業として、岸和田市内観光名所案内や岸和田の歴史にまつわる情報、岸和田城本丸前には、岸和田城の歴史のパネルなどがあったりします。
さらに、岸和田クイズでは物足りない猛者や、岸和田に興味が湧いてしまった!そんなあなたには、二の丸広場の前に貼ってある「岸和田問答」もぜひ挑戦してみて下さい!こちらは、DEEP岸和田クイズよりも難易度が高く、しかも全問正解者には抽選で賞品もご用意してます!
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それでは、この後はクイズの解説です。実は、答え合わせよりもこちらのほうが面白かったりする(編集者談)解説をお楽しみください!

問Ⅰの解説
この問題はお城を眺めればわかります。本丸の周りの水面から50cm~1mくらいの高さに平坦面があるのがわかります。これを犬走りといいます。正式な名称ではなく、建築物の周囲にある平坦面は犬走りと呼ばれます。
岸和田城の犬走りは、石垣の弱いところを補強する意味があったと考えられます。敵に「取り付く島」を与える意味では、本来は無いほうがいいものですが、本丸下に上陸した敵を狭い範囲の箇所だけ攻撃すれば倒せるため、城の機能としてはあまり矛盾しません。
ちなみに①、②は存在しません。④は今の紀州街道本町一里塚のあたりに抜け穴の出口があったといわれていますが、真相はいかに。
問Ⅱの解説
岸和田城には京都の伏見城から移築された「伏見櫓」がありました。この伏見櫓という名称は日本のいくつかの城でみられ、福山城伏見櫓は現存、江戸城伏見櫓も皇居二重橋から望めます。他には大坂城伏見櫓、膳所城伏見櫓、尼崎城伏見櫓などが存在したことが知られます。江戸城、大坂城は実際には伏見城からの移築ではないのですが、上記の城をみると、初期徳川政権にとって戦略上重要な城に対し「伏見櫓」が配置されていることがわかります。
徳川将軍家より岸和田城に伏見城の「櫓」が下賜されたという事実は、当時の畿内における岸和田城の重要性が初期徳川政権にとっても際立っていたことを示すものと言え、将軍家御拝領という、天守に匹敵する格式を持った櫓だったと言えます。
問Ⅲの解答
岸和田高校には、市の指定文化財「落合文庫」があります。これは、落合保さんという校長先生が集めたもので、その中に「解体新書」(ターヘルアナトミア)があります。解体新書自体は非常に有名で、杉田玄白、中川淳庵、前野良沢らによって訳され、日本で最初の西洋医学書となり、そこで訳された言葉は現在も医学用語として使われているものが数多くあります。
ただし、厳密にいうと解体新書は「ターヘルアナトミア」の邦訳ではなく、ターヘルアナトミア自体は直訳すると「解剖(学)図表」という意味で、内容に関してもいくつかの参考解剖書に基づきまとめられたようです。しかし、杉田玄白が『蘭学事始』の中で「ターヘルアナトミア」と記しているので、この書物の訳本として解体新書が一般的に広まりました。
問Ⅳの解答
この場所は、岸和田藩筆頭家老中家の屋敷があった場所です。校舎建設に伴う発掘調査では、江戸時代の遺構は前の校舎の基礎の影響であまり残っていなかったのですが、大坂の陣前後に鍛冶を行った跡が発掘調査で確認されています。家老屋敷が建つ前は合戦に備えて武器を作っていた鍛冶場であったと考えられます。
明治維新、新しい時代の到来と共に人々が重要視したのは「教育」でした。そのため、旧制の小学校、中学校の中で初期のものは、必ずといっていいほど町の中心の一等地に置かれました。特に城郭のある町では、必ず城跡に学校が置かれます。岸和田高等学校(旧制岸和田中学)が城跡にあるのは、単純に広い土地があったからではなく、子供の教育を町の中心に据えるべきとされた時代だったからです。
問Ⅴの解答
この場所は岸和田城・三ノ丸に該当します。岸城神社のご祭神は天(あま)照皇大神(あまてらすおおみかみ)・素盞嗚尊(すさのおのみこと)・品陀別命(ほんだわけのみこと)の三柱です。このご祭神にヒントがあります。天照皇大神は往古より当地の産土(うぶすな)神(がみ)とされています。現・境内地は、慶長2年(1597)の小出秀政による岸和田城天守竣工の頃に整備され、疫病退散に神威を発揮する素盞嗚尊(牛頭天王)が祀られると共に、品陀別命(八幡神)も併祀されました。宮寺・日光寺の文書には、素盞嗚尊は正平17年(1362)に京都・感神院(八坂神社)より勧請され、当初は隣邑地域に祀られたとあります。
この素盞嗚尊は、本来は天照皇大神の弟であり、古事記などでも活躍が知られる神様です。しかし、平安時代以降、神仏習合の影響で牛頭天王と習合され、いつしか同じ神様を指すようになりました。神社の名前が変わったのは、明治政府により出された神仏分離令(正式には神仏判然令)により、権現と並んで名指しで通達された牛頭天王はかなり弾圧的な扱いを受けたことが影響していると考えられます。
問Ⅵの解答
最後の岸和田藩主、岡部長職(ながもと)は、藩主を辞した後、東京へ移りアメリカ、マサチューセッツ州スプリングフイールドへと留学しました。この際、キリスト教に触れ、入信しました。入信後、郷里の友人にキリスト教を伝えてほしいと、新島襄に手紙を出しており、これが泉州におけるキリスト教布教のきっかけとなりました。
このとき、新島襄は旧藩士であった山岡尹方(ただかた)を長職から紹介され、山岡は泉州における布教活動の中心的役割を果たします。
新島襄と山岡尹方の関係は非常に密接で、山岡家にはいくつもの書簡が残されており、泉州の人が同志社大学に入学するに際して援助を行ったり、新島の死後も、山岡家には妻・新島八重も布教の際に宿泊したりするなど、泉州の布教拠点としての役割がうかがえます。
問Ⅶの解答
ややイジワル問題ですね。違う部分は昭和初期の金融恐慌の部分だけです。本町には五十一銀行がありました。明治時代初めに全国に作られた「国立銀行」の一つであり、設立順に一番から百五十三番までが存在したことからナンバー銀行とも呼ばれます。実は現在でもいくつかのナンバー銀行が存在し、経営を続けています。
明治11年(1878)に設立された五十一銀行は、当時木造の民家風の建物でした。大正12年(1923)に写真の煉瓦造の建物が建設されました。昭和15年(1940)、国の政策により和泉銀行、寺田銀行、岸和田銀行と合併し阪南銀行と名称が変更され、昭和17年(1942)には富田林銀行、辻林銀行等と合併、昭和20年(1945)に住友銀行に合併され住友銀行岸和田本町支店となりました。その後、統合により廃止、跡地は、岸和田市の水道局庁舎となりましたが、昭和56年に解体されました。
いかがだったでしょうか?岸和田のことをさらに詳しく知っていただけたと思います。
また、これで岸和田に興味を持っていただいた、NEW岸和田ファンの方。岸和田市などが主催するウォークイベントなどがいろいろありますので、ぜひこちらにも参加いただいて、もっともっと岸和田に詳しく、そして岸和田を好きになりに来ちゃってやー!
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