1995年(平成7年)1月17日(火)AM5:46
かつて聞いた事が無い「地鳴り」で目が覚めた!
と思った瞬間の揺れに何をすれば良いのか解らないままおさまるのを待った。
夜が明け辺りが明るくなっていったが、いったい何が起こったのか?
理解できないままいつものように会社へと車を走らせた。
カンカン場で臨海線を大阪方面に入ったのが7時過ぎだったと思う。
それから泉大津まで2時間以上かかった。
幹線道路は通勤ラッシュと重なり大混雑、車で聞くラジオの情報も混乱しているようで状況がつかめない。
目的の堺には到着できないと判断し岸和田へ引き返した。
自宅でテレビのニュースを見ていたが、時間が経過するにつれ被害の状況が映し出され
信じられない光景に驚きと恐怖を感じた。
阪神淡路大震災は岸和田でも震度5(たしか・・・)の揺れがあり
臨海埋立地では液状化現象も見られた。
地震があったその翌日、「岸和田祭礼後梃子協議会」が古渕 美紀(ふるぶち よしき)会長(堺町)の元、執行部が集まった。
後梃子協議会とは平成6年に創立され、実働としては翌7年の9月祭礼から始動する団体であった。
当時は岸和田旧市20町の後梃子(青年団と若頭の中間団体)から代表を選出した組織で、各町の親睦と警備を担当する目的で作られた。
まだ祭りで活動していないこの団体が地震の翌日に緊急会議を開き、今自分達が神戸に・・・被災地に何が出来るのか?を考え、支援物資の提供をする事に決定した。
即座に郷から町へと伝達され物資と人材の召集連絡が回った。
それと同時に運搬するにあたって、どのルートを使うか?が問題となった・・・が
その答えも早かった!
「浜には漁師の仲間がおるやろ、海で行こや!」
この一言を、中之濱町と大工町のメンバーが快諾し漁船2艘の出航が決まった!
その時に使われた船がこの二隻

「住吉丸」

「金比羅丸」
物資は「衣類、毛布、食料、水」を基本とし、それぞれの町が自らのルートで集めた。
古渕氏のお話では泉佐野にある「オリエンタルベーカリー」さんにパンを安くわけていただく相談に行ったところ、なんと無償で500本ほどの食パンを提供していただいたそうです。
他にも「ふみや食堂」さんからはおにぎりと惣菜が、「矢崎」さんからも・・・と
その他にも続々と物資は集められた。
運んだ日はいつだったか?(現段階では特定できていません)
地震から1週間も経たない内の平日だったとの記憶です。
早朝より岸和田港に各町から物資が次々と届いた。

当時、私も後梃子の一員だったのと船を出す町のメンバーなので、届いた物資を船に積み込む作業を手伝った。
2艘の漁船に手際良く、そして丁寧に積み込まれた後は各町選抜メンバーが船に乗り込み
岸和田港を出発した。
天気は良かった。波も穏やかだった。
しかし船内は物資で一杯だった為、甲板に立ったまま神戸に向かった。
さすがに寒かった。

船は1直線に「メリケンパーク」を目指して走った。
不謹慎ではあるが正直な話、行きの船では仲間と実際どうなっているのか見てみたいと興味本位の話題が続いた。
45分あまりで到着したのには驚いた!
神戸タワーが見え、それがどんどん近づく、港には始めて見る自衛艦がたくさん停泊していてこれにも驚いた!
どこに船を着け、荷物を降ろしたら良いかわからない。
無線で連絡を取り大型自衛艦の間に誘導され岸壁に船を着けた。
物資を岸に降ろそうとしたら、自衛隊の方々が来て「手伝います」と言って運び出してくれた。
バケツリレーで運び出しているとき、一つの荷物が海に落ちた。
その瞬間、メンバーの一人が急いでタモを取りに行き、慌てて救い上げた。
みんなの気持ちがいっぱい詰まった物資を一つでも無駄に出来ない!
そんな気持ちが伝わった。

運び出された物資は大型ダンプ数台に分かれて積み込まれ次々と搬送された。
岸和田の祭礼メンバーと自衛隊と地元の運送業者との連携が見事だった。
作業は数十分で終わった。その後、岸壁から少し歩いた。
岸壁はコンクリートブロックが埋め立てられて造ってあるのでしっかりしていて、気付かなかったが、そのすぐ横の道路は2メートルほど陥没しアスファルトが割れ、歩ける状態ではなかった。
そのとき気付いたのだが、お酒の匂いが充満してた。酒蔵が崩壊していたようだ。
ダンプの運転手と自衛官に御礼を言って港を後にした。
軽くなった船に乗んだ。
行きとは違って帰りはみんな無口だった。
達成感とか充実感ではなかった。
なんと言ったらいいか・・・
言い表すことが出来ない感情に包まれていた。
先日、古渕氏にお話を聞いたときに私も初めて知ったのだが
この一連の活動の殆どが『行き当たりばったり』の行動だと聞いて驚いた!
「行ったら何とかなるやろ!」「とにかくやろかえ!」
岸和田人らしいと言えばそうであるが、個々のフットワークの良さ!ここ一番のチームワーク!は「祭り」そのものであり、またそこに見返りを最初(はな)から求めていない
それも祭礼団体の特質でもある。
そして残念ながら当時のデータや写真は記録していないと聞きました。
今回の記事はお話をお聞きした内容や、同行したメンバーの記憶をたどった中での書出しであります。
情報の間違いや表現に失礼がありましたらご理解の上、ご指摘をお待ちしております。
また当時の状況(日時・物資内容・物資提供者など)や写真などが有りましたら、コメントやメールにての情報提供をお待ちしております。
今後はこれをベースに追記して行き、後世に継がれるものになればと思っています。
