トラディッショナル 冬瓜を貰って考えたこと
つれあいがお義母さんから冬瓜の焚いたのを貰ってきた。
で、これを暖めておろし生姜を添え、スープ代わりにズズッといただく。まあ、これがお世辞抜きにめちゃくちゃうまい。スープの奥ゆかしい味に干しエビの滋味が加わり、それを冬瓜が吸い込んでとろんとなってる。あんなに一杯貰ったのに、もう底が見えてきてる。
さて、この冬瓜、以前は貰った冬瓜でスープカレーをつくったり、鶏スープ煮にしたりとか料理をしたんですが、正直言って自ら冬瓜を買って料理をしようという気にはあんまりならない。たぶん、厨房男よりも下の世代で冬瓜を買って料理をするという方は少ないんではないかと思います。冬瓜に限らず蕗とか里芋とかトラディッショナルな野菜も。
だからそういう意味で、きっとお母さんのように冬瓜をおいしく焚ける域にはなかなか達せられないんやないかなぁ。厨房男はまだ、蕗や里芋なんかは結構好きで(というか歳を取るに連れて、そんなののおいしさがわかるようになったというか、恋しくなったというか・・・)、ごくたまに自分でも買って料理をしたりするんですが、厨房男よりも下の世代が好き好んであんまりこんな食材を買ってまで料理をしないような気がします。
でも、これって恐ろしいことなんですよねぇ。
だって大袈裟に言えば食文化が変わる。むかし食べた食材がどんどんと喪われていく。そのうちきっと市場では見かけなくなって、料理屋なんかでしか食べられなくなるんやないかなと不安になります。まあ、杞憂に終わってくれればいいんやけども。
まあ、そんなことにくよくよしてても仕方がないんで、きのうの残りの天狗舞と松茸御飯、それに冷凍してあった子持ち鰈の一夜干し、それにちりめんじゃこと大根おろしという、わりかしトラディッショナルな献立を。
でも、なんかトラディッショナルな食べ物っていうのが引っかかる。やっぱりスローフードや食育なんていうのが大事なんですかね。
(「厨房男」2008.08.22 Friday)








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